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  2. 消えた指輪
消えた指輪 婚約指輪・結婚指輪ならジュエリーかまた

ここに一編の小説があります。
タイトルは「消えた指輪」。

ありふれたミステリー小説のようですが、実はある秘密が隠されています。
この作品に登場する「謎」は、女性の脳には解きやすく、
男性の脳には解けないようにできているのです。
男女10人ずつにテストを行ったところ、
女性の正答率が40%に上ったのに対し、男性の正答率は0%でした。

あなたは、この奇妙な「謎」を解くことができますか?


消えた指輪

作:広瀬川乱歩

-0-

その男は、電柱の影からじっとマンションの窓を見上げていた。

和泉いずみがその男に気づいたのは偶然だった。丸まった落ち葉が風に乗って飛んで行くのを歩道橋から眺めていたら、葉っぱが回って落ちたところに男が立っていたのだ。和泉はかじかんだ指先に息を吐きながら、その男を見つめた。

男は赤いキャップを目深にかぶり、ボロボロのモッズコートを着込んでいた。時刻は二十二時を過ぎている。こんな夜遅くに、人気のない路地裏で何をしているのだろう。和泉は歩道橋のうえで首を傾げた。

男が見つめているのは十二階建てのマンションだった。明かりの灯った窓は数えるほどしかなく、壁にも黒ずんだシミが浮かんでいる。それでもあたりの低層マンションと比べると、一回り上の高級感を醸していた。

男はしばらくマンションの窓を見つめていたが、おもむろに電柱の影へ身を潜め、路地の左右をきょろきょろと見回した。いかにも怪しげな仕草に、和泉の胸騒ぎが膨らむ。男はゆっくりとステンレスの柵に手をかけると、鉄棒で前回りをするみたいに、くるりと柵の向こうへ飛び込んだ。マンションの廊下から、コツコツと乾いた足音が響く。

和泉の疑いは確信に変わった。ごくりと唾を飲む。もう間違いない。
「泥棒だ!」

かすれた声がむなしく歩道橋に響いた。橋の上はもちろん、足下の道路にも人影はない。110番通報をしようとスマートフォンを取り出したが、あいにく充電が切れていた。

このままでは泥棒を見逃してしまう。こうなったら自分で捕まえるしかない。

和泉は息を切らして歩道橋を駆け下りた。

-1-

夜道で怪しげな男に出くわす一時間前のこと。

ジュエリーかまた早坂店の休憩室で、和泉は先輩に疑いの目を向けていた。
「鎌田一さんは、本当にお客さんの名前を全部覚えてるんですか?」
「もちろん。顔も覚えてるよ」

むきたての茹で卵みたいな顔の男が、真顔でリングを磨きながら言った。

男の名前は鎌田一幸助かまたいちこうすけ。ジュエリーかまた早坂店で働くジュエリーデザイナーだ。中学生みたいな童顔で、仕草や喋り方もどこか子供っぽい。もっともデザイナーとしての腕前は抜群で、お客さんからも厚い信頼を得ていた。

「鎌田一さんって、ずいぶん長く働いてますよね?」
「うん。和泉ちゃんより十個上だね」
「それで全員の顔を覚えているっていうんですか? 怪しいなあ」
「そんなことないよ」鎌田一が唇を尖らせる。
「じゃあ、去年のクリスマスのお昼に来たお客さんは?」
「輪島丸雄さん、三十一歳。実家が大阪で、就職をきっかけに仙台へ移住している。婚約者は角子さん。趣味はダーツ。好きな食べ物は目玉焼き。好きな映画は『リング』。好きな動物は……」
「分かりましたよ」和泉はむりやり口を挟んだ。「鎌田一さんって頭が良いんですね」
「うーん、指輪を作るときにお客さんのことを何度もイメージするから、いつのまにか覚えちゃうんだよね」
鎌田一さんが涼しい顔で言う。和泉は腕組みして唸り声をあげるしかなかった。ジュエリーかまたのデザイナーとして働き始めて半年になるが、鎌田一さんには驚かされてばかりだ。

「あ、でも、入社式で和泉ちゃんを見たときはびっくりしたよ。履歴書とぜんぜん違う顔だったから」
鎌田一さんが愉快そうに笑う。

「化粧を変えただけですよ」
「本当? 整形かと思った」
「うるさいなあ。フロアの掃除が終わったんで、もう帰りますね」
「あはは、お疲れさま」
リングを並べる鎌田一さんに見送られ、和泉はジュエリーかまた早坂店を後にした。

どうしたら鎌田一さんみたいに、お客さんから信頼されるデザイナーになれるんだろう。もっとちゃんとした大人になりたいのに。そんなことを考えながら電車に揺られていたら、うっかり最寄りの月輪駅を乗り過ごしそうになった。

肩で息をしながら駅を出る。今日はゆっくり休んで、明日から気合いを入れ直そう。そう決めて歩道橋を駆け上がった、そのとき

赤いキャップをかぶった、怪しげな男を見つけたのだった。

-2-

マンションのエントランスは、居住部分を挟んで廊下の反対側に位置していた。

観音開きのドアを前後に揺すってみる。案の定、ぴくりとも動かない。ドアの横には電卓みたいなボタンが並んでいた。オートロックの錠がかかっているのだ。

もたもたしているうちに、泥棒が柵を越えて逃げてしまうかもしれない。和泉はエントランスを飛び出すと、路地裏を回り込んで、廊下の手すりに飛びついた。転げるようにして、薄暗い通路に入り込む。

エレベーターに駆けつけると、最上階のランプが灯っていた。赤いキャップの男がまだ上の階にいるのだろう。ボタンを押して十五秒ほど待つと、下りてきたエレベーターに乗り込み、息を殺して「9」のボタンを押した。

エレベーターが静かに上昇する。心臓が早鐘を打っていた。チンと鐘の音が鳴って、ゆっくりと扉が開く。

―泥棒!」
男の怒鳴り声が聞こえた。

エレベーターを飛び出し、左右の廊下を見回す。鈍い衝突音がして、九〇八号室のドアが開いた。赤いキャップの男が駆け出してくる。

「どけ!」
男がこちらへ走ってきた。左腕に小さな木箱を抱えている。エレベーターで逃げるつもりなのだろう。
――――!」

和泉は両足に力を込めたが、男にあっけなく跳ね飛ばされた。和泉がうずくまっているうちに、男がエレベーターに駆け込む。顔を上げたときには、窓ガラスの向こうで男の身体が下がっていくところだった。
「ちくしょう」

すぐにボタンを押したが、次にエレベーターが上ってきたのは一分後だった。息を切らして一階に下り、道路や歩道橋を見渡す。

赤いキャップの男は、もうどこにも見当たらなかった。

-3-

「わざわざ追いかけてきてくれたんやな。ほんまにありがとう」
九〇八号室の上がり框で、もやしみたいな男が肩を落として言った。

泥棒を取り逃がした五分後。和泉はマンションの九階へ戻ると、九〇八号室のインターホンを鳴らした。このまま退散したら、うっかり泥棒の一味と間違えられかねないと思ったのだ。

ドアを開けて出てきたのは、鈴木平太すずきへいたと名乗る気の弱そうな男だった。年齢は二十代半ば。目の下に泣きボクロがあり、視線がいつもキョロキョロと揺れていた。
「こちらこそ、力になれなくてすみません。捕まえようと思ったんですが、あっさり突き飛ばされちゃいました。警察にはもう連絡しましたか?」
「いや、してへん」
「え?」和泉は首を傾げた。「電話ないんですか?」
「あるよ。でも通報はできん。あいつは大学の後輩なんや」

鈴木は悔しそうに言って目を伏せた。

 

鈴木に促されるまま、和泉は居間の座椅子に腰をおろした。キッチンから鈴木がティーカップを運んでくる。

「冷えててすまんな」
「いえ、とんでもないです」
鈴木はソファに腰を下ろすと、俯いたまま口を開いた。

「あいつ鈴木宏すずきひろしは、もともと大学の後輩やったんや。おれたちはドーナツ研究会に所属してた」
「鈴木? 苗字がおなじですね」
「ああ。研究会でもよく、ダブル鈴木って呼ばれてたわ。おれたちは休日はドーナツの食べ歩きをするほどの仲やった」
「それがどうしてこんなことに?」
「亀裂が入るきっかけを作ったんはおれや。宏が付き合ってた一年生のカヨコちゃんに、おれが手を出したんや。宏が二股をかけてるって嘘の噂を流して、落ち込んでいたカヨコちゃんを自宅へ連れ込んだ。最低やろ?

でも悪いことはばれるもんや。友だちづてにそのことを知った宏は、激怒してドーナツ同好会をやめた。大学にもほとんど来なくなったんとちゃうかな。それ以降、おれらが在学中に絡むことは一度もなかった」

和泉は何も言えないまま、鈴木の言葉に耳を傾けていた。鈴木が深くため息を吐く。

「おれはカヨコと付き合ったんやが、二年後に別れた。あんなに喧嘩したのは人生で初めてやったな。それが去年のこと。

でも今年になって事件が起きた。いま付き合ってる子とデートをしてて、ドーナツ屋で宏と鉢合わせしたんや。あいつは随分とやつれてるように見えた。なんも喋らんかったけど、宏がおれを睨んでるのは分かった。当たり前や。自分の彼女を奪ったくせに、また別の女とデートしとるんやから。

その日からあいつの嫌がらせが始まった。ポストにゴミを入れられたり、無言電話をかけられたり、迷惑なもんや。最初は怯えとったけど、だんだん腹が立ってきてな。あいつの古いアドレスを調べて抗議のメールを送ったんやが、返信はなかった。

だいたい、おれだっていい加減な気持ちで彼女と付き合ってるわけやない。だからおれは腹を決めたんや。彼女に結婚を申し込もうって」

「あ、それなら指輪が必要ですね。ぜひ当店でいかがですか?」

和泉が名刺を取り出す素振りを見せると、

「もう作った。ジュエリーかまた早坂店で」
思わず腰を抜かしそうになった。鈴木はかまたのお客さんだったのだ。

「ありがとうございます。わたし、ジュエリーかまたの新人デザイナーなんです」
「ほんまか。えらい偶然やな」鈴木も目を丸くする。「昨日、指輪を受け取りに行ったとこやで」
「あ、昨日はたぶん、別のお客さまの対応をしておりまして……」
「さよか。でも駅からの帰り道、歩道橋でズッコケてしまって。指輪の入ったケースを落としてもうたんや。慌てて拾ってバッグにしまったんやけど、ふと顔を上げたらあいつがこっちを見てた」

ぞくりと肌が粟立った。

「それじゃ、まさか……」
「今日、あいつはこの部屋に忍び込んだ。昨日、おれが彼女にプロポーズするのを知って、指輪を盗みにきたんや。六年越しの復讐やな」

和泉はテーブルに目を落とした。なぜ気づかなかったのだろう。いつも店舗で見ているのと同じ、白い指輪ケースが置かれていた。

「そういうことだったんですね」
「原因を作ったのはおれなんや。通報はできへんよ。あいつを警察に突き出すことになる」

鈴木はひときわ長く息を吐くと、カップに注いだ紅茶をすすった。

「でもどうして、指輪ケースはここに残ってるんですか? そういえば宏さん、木箱を小脇に抱えてましたね」
「ああ、よく見よったな」鈴木は少し慌てた声を出した。「うちの彼女、オルゴールが好きなんや。せやからサプライズを考えてん。誕生日にオルゴールをプレゼントするやろ。で、音楽が止まると、パカっと蓋が開いて指輪が出てくるっちゅう。海外から輸入したおもちゃなんやけどな」

なるほど、指輪はオルゴールごと持ち去られたというわけか。和泉は腕組みして首をひねった。

「このまま通報しないと、彼女さんにプロポーズできないですよ。いいんですか」
「しゃあないやろ。警察に相談せんと指輪を取り返せるならそうしたいとこやけど。そんなうまい方法があるとは思えへん」

鈴木はソファにもたれて天井を見上げた。和泉もつられて首を上げる。

鈴木の言いたいことは、和泉にも理解できた。鈴木はいまも、学生時代に後輩を裏切ったことを後悔している。ふたたび後輩にひどい仕打ちを与えることはできないというわけだ。

とはいえ鈴木は、いまの恋人を愛しているという。このままでは大切なプロポーズが失敗してしまう。

いや、待てよ―。和泉の脳裏に、さまざまな考えが駆け巡った。
「鈴木さん、明日まで時間をくれませんか」

和泉が言うと、鈴木はうさんくさそうに眉をひそめた。
「どういうことや」
「うちに名探偵みたいなジュエリーデザイナーがいるんです。あの人なら、指輪を取り返すとっておきの妙案が思い浮かぶと思うんです」

和泉は思わず立ち上がると、紅茶のお礼を言って九〇八号室を後にした。

-4-

指輪泥棒と鉢合わせした翌日の朝。

オープンするまでの三十分間で、和泉は昨日の出来事を鎌田一に打ち明けた。鈴木から聞いた二人の過去を、かいつまんで説明する。

「鈴木平太さんね。もちろん覚えてるよ。二十七歳で出身は滋賀県。義父の影響で英文学を愛好している。好きな作家はシェイクスピアと―」
「そんなことはどうでもいいです」

和泉は唇を尖らせて言った。鎌田一が不服そうに首を傾げる。

「どうでもよくないでしょ。大切なお客さまなのに」
「そういうことじゃなくて。このままじゃ鈴木さんはプロポーズできないんです。なにか良いアイディアを考えてください」
「うーん。よく反省して、後輩に謝罪すればいいじゃない」
「でも、鈴木さんには宏さんの居所が分からないんですよ」
「そうかあ」鎌田一が頭を掻く。「じゃ、泥棒を捕まえるしかないね」
「その方法を考えてください」
「簡単だよ。捕まえてあげようか」

鎌田一が顔色を変えずに言う。和泉は耳を疑った。
「できるんですか?」
「うん、鈴木さんに一つだけ質問をすればいい。仕事が終わったら鈴木さんに会いに行こう」

鎌田一はネクタイを締めて、嬉しそうに笑った。
「よし、今日もがんばるぞ」

読者への挑戦

このあと鎌田一幸助は、
赤いキャップをかぶった男の居場所を突き止めます。
彼はなぜ、男の居場所を見つけることができたのでしょうか?

正解が分かった方だけ、この先へ進んでください。

-5-

営業時間終了後、和泉と鎌田一は電車で月輪駅へ向かった。

「どこへ行くんですか?」
「鈴木平太さんちのマンション。言ったよね? 泥棒を捕まえるには、鈴木さんに質問する必要があるって」

鎌田一はニヤニヤしながら言って、歩道橋を駆け上った。和泉も慌てて後に続く。

鈴木の住むマンションへ到着すると、一階のエントランスでインターホンを鳴らした。ザザザと波が寄せるような音が響く。
「どちらさまですか」

ざらついた声が聞こえた。
「ジュエリーかまた早坂店の鎌田一です。先日はお世話になりました」
「…………」
「ご安心ください。今日は泥棒探しのお手伝いに参りました」
「……どういうことです?」
「詳しくはお部屋でご説明しましょう」

鎌田一が間髪入れずに言う。鈴木はしばらく黙り込んでいたが、
「分かりました」
ピッと音が鳴って、ドアが開いた。

エレベーターで九階へ上ると、鎌田一は九〇八号室のインターホンを鳴らした。

十秒ほどで、ガチャンと錠を外す音が聞こえた。ドアがゆっくりと開く。
―え?」

和泉は目を疑った。
「お久しぶりです。指輪は気に入っていただけましたか?」

鎌田一が満面に笑みを浮かべて言う。

赤いキャップをかぶった男、、、、、、、、、、、、が、ドアノブを握って立ち尽くしていた。

「きみの話を聞いてすぐにぴんときたよ。きみが会った鈴木平太さんはニセモノだってね」

鈴木平太は二人を案内すると、机にティーカップを並べた。紅茶が白い湯気を上げている。鎌田一は会釈して話を続けた。
「ニセ鈴木平太さんの説明には矛盾があった。彼の説明をまとめるとこうだ。鈴木平太さんは自宅に置いてあった婚約指輪を、鈴木宏さんという男に盗まれた。婚約指輪は、オルゴールが好きな恋人のために、オルゴールそっくりのケースに入れてあった。宏さんはかつての恋敵で、近年はまったく交友がなかった」
「そうですね」
「おかしいじゃない。宏さんが泥棒に入ったとき、机のうえに白い指輪ケースとオルゴールが置いてあった。ふつうはケースの中に指輪が入っていると思うよね。どうして宏は、オルゴールの中に指輪が入っているって分かったの?」
「あ」間の抜けた声が洩れた。「たしかに」
「『泥棒だ!』と声がした直後に、宏は九〇八号室を逃げ出している。オルゴールの中を覗いている時間はなかったはずだよ。赤いキャップの男は、オルゴールの中に指輪が入っていることを知っていた。こっちが本物の鈴木平太さんだったんだ」
「なるほど」和泉は唸り声を上げた。「でもどうして、柵を越えてマンションに入るような真似をしたんですか?」
「焦っていたからだよ。鈴木平太さんは自宅への帰り道、マンションの部屋に明かりが灯っていることに気づいた。立て続けに嫌がらせを受けていた鈴木さんは、誰かが自宅に侵入していると考えて、慌てて部屋に帰ったんだ。マンションのエントランスは廊下の反対側にあるから、回り込んでいると時間がかかるからね。

九〇八号室に駆け込むと、案の定、宏さんが部屋を荒らしていた。宏さんの狙いは鈴木さんのプロポーズを失敗させること、つまり結婚指輪を奪うことだ。でもオルゴールに指輪を入れていたことが幸いして、宏さんは指輪を見つけられずにいた。鈴木さんはとっさにオルゴールを小脇に抱えると、九〇八号室を飛び出したんだ」

「びっくりしました」鈴木平太が口を挟んだ。「知らない女の人が廊下に立ってたんですから」
「そうでしょうね。鈴木さんは和泉ちゃんを突き飛ばし、そのままエレベーターで逃走した。

一方、泥棒を取り逃したと思い込んだ和泉ちゃんは、事情を説明しに九〇八号室へ向かった。慌てたのが宏さんだよ。自分が窃盗犯だとばれて、通報されたら大変だ。そこで宏さんは、とっさに鈴木平太さんを演じることにした。二人の過去を、立場を逆にして説明したんだ。どうりで紅茶も冷めていたわけだね」
「そういうことでしたか。昨日は失礼しました。お怪我はありませんでしたか」

鈴木が深々と頭を下げたので、和泉は慌てて両手を振った。
「やめてください。わたしが思い込みでマンションに侵入したのが悪いんですから」
「まあまあ。あとは泥棒を捕まえる方法です。鈴木さん、一つ質問させてください」
「何でしょう」鈴木が声をこわばらせる。
「あなたの恋敵の名前を教えてください。彼の言った『宏』という名前はニセモノでしょう。いくら慌てていても、泥棒が赤の他人に自分の名前を明かすことはないはずです。警察にその名前を伝えれば、簡単に居場所が割れますよ」

鎌田一は神妙に言って、鈴木の目を見つめた。
―もっとも、通報するかは鈴木さん次第ですけどね」

紅茶の礼を言って九〇八号室出ると、二人は月輪駅へ向かった。

歩道橋に上ると、冷たい風が身を切るように吹き付けた。カエデの枝が激しく揺れている。
「鎌田一さんがダブル鈴木の入れ替わりに気づいたきっかけって、さっきの推理だけじゃないですよね」

和泉が声を落として尋ねると、
「うん。よく分かったね」鎌田一はぺこりと頷いた。「鈴木平太さんの顔に泣きボクロなんかないもん」

和泉は首をすくめた。鎌田一がお客さんの顔をすべて覚えているというのは本当だったらしい。
「鈴木さん、警察に届け出るんでしょうか」

和泉が俯いたまま尋ねると、
「しないでしょ。原因は自分にあるんだもん」
「それじゃ、嫌がらせが続くかもしれませんよ」
「ぼくらが立ち入れるのはここまでだよ。あとは二人で話し合ってもらうしかない」

鎌田一はふと足を止めると、和泉のほうを振り返った。
とでも言うと思った、、、、、、、、、?」

冷や汗が背筋を伝い落ちる。やはり見抜かれていたか。
「いつ分かったんですか?」
「整形のこと?」
「わたしの正体ですよ」
「さっき、この歩道橋からマンションを見上げたときだね。昨晩、男を追ってマンションに忍び込んだとき、エレベーターは最上階に止まっていたんでしょ。あのマンションは十二階建てだ。鈴木平太さんの部屋は九階なのに、どうして最上階に止まってたの?」
「え、分かんない」
「可能性は一つ。鈴木平太さんはこのとき、自分の手で泥棒を捕まえるつもりだったんだ。だからエレベーターを下りるとき、十二階のボタンを押しておいた。泥棒がエレベーターで逃げられないようにね」
「なるほど」
「でもかつての恋敵と対面して、その鬼気迫る様子に驚いた。それで方針を変えて、とりあえず指輪だけ持って逃げることにしたんだ」
「ふうん。それ、今の話と関係あります?」
「あはは、そうだね。大事なのはそこじゃない。きみはエントランスから、迷わず九階に向かった。エレベーターは十二階に止まってたのに、なぜ男が九階にいるって分かったの? きみが鈴木平太さんの部屋を知っていたとしか思えないじゃない」

鎌田一は鬼の首を取ったようにニヤリと笑った。
「そういうことですか」
「きみは鈴木平太さんを知っていた。初めに九〇八号室を訪れた時点で、ニセモノが鈴木さんの振りをしていることに気づいたはずだ。でもきみは勘違いをした。鈴木平太さんが何か悪事を働いて、警察から身を隠すために別人に成りすましていると考えたんだ。深読みのしすぎだね。

ぼくがマンションへ行くよう仕向けたのは、その悪事を暴かせるため。お客さまの顔を覚えているぼくなら、鈴木さんがニセモノってことにも気づくはずだもんね。まったく油断のならない後輩だよ」

鎌田一はわざとらしく首をすくめた。和泉も思わず肩を落とす。この男を甘く見すぎていたらしい。
「それじゃ、わたしの正体にも気づいてるんですね」
「もちろん。きみが鈴木平太さんの部屋を知っていたのはなぜ? 彼を憎んでいた人はもう一人いる。嫌がらせをしていたのはきみでしょ? 和泉カヨコ、、、ちゃん」