オーダーメイドの結婚指輪・婚約指輪なら【ジュエリーかまた】

  1. >
  2. 店舗一覧 >
  3. >
  4. >

銀座スタッフが紹介する銀座発展の歴史

公開日:


銀座といえば、高級、おしゃれ、最先端……。数々の言葉で象徴されるこの地は、昔から人々を魅了する文化の拠点でもありました。銀座発展の歴史をひもとき、いつもより少しだけ風情を楽しみながら、銀座の通りを歩いてみませんか。

目次
  1. 銀座のルーツ
    1. 銀座と金座
    2. レンガの街・銀座へ~明治・大正時代
    3. 復興と経済成長
  2. 銀座発展のカギとなったお店
    1. 銀座越後屋
    2. カフェー・プランタン
    3. 資生堂本店
  3. 銀座の今とこれから

1.銀座のルーツ

東京都中央区、新橋と京橋に挟まれた一帯が銀座です。築地からも程近く、老舗や高級ブティックが並ぶ繁華街として発展を続けています。その歴史は江戸時代から始まりました。

銀座と金座

「銀座」とは元々地名を表す名前ではなく、江戸幕府が設置した銀貨を造る発行所のことでした。銀座には買い入れを行う役所と、銀貨を鋳造する工場があり、銀を扱う拠点として力を持っていました。当初設置されていたのは京都の伏見と駿府(現在の静岡市)でしたが、まもなく駿府から江戸(東京都中央区の銀座)に移転されています。のちに不正事件が起こりさらに日本橋へ移されましたが、銀座の呼び名は残ったのでした。

「銀座」があれば、もちろん「金座」も存在していました。名前の通り金貨の鋳造を取り扱った組織で、東京都中央区日本橋に設置されていました。金座は勘定奉行の支配下にあり、金貨以外の通貨の発行していたため、国の中央銀行のような役割も果たしていました。そして現在、この場所には日本銀行本店が立地しています。今も昔も、お金との関わりが深い土地なのです。

江戸前期~中期である元禄時代、銀座は経済の一拠点としてだけではなく、呉服店や観世流の能屋敷などが集まるにぎやかな街として栄えました。

レンガの街・銀座へ~明治・大正時代

豊かに発展した銀座でしたが、江戸後期には活気を失いつつありました。その廃れた雰囲気を一転するきっかけとなったのが、明治5年(1872年)に起きた銀座大火です。

強風により銀座や丸の内、築地まで広がった火災により、東京の再興に多額の資金が投じられることになります。当時「お雇い外国人」として来日していたイギリス人建築家ウォートルスが設計を担当し、道幅が広くレンガ造りの建物が立つ街並みに生まれ変わりました。ガス灯も登場し、現在の銀座の雰囲気の基礎となりました。

明治5年は新橋―横浜間の鉄道が開通した年でもあり、銀座にはショッピングを楽しめるような、新たな産業が入ってきました。西洋化が進んだ街には新聞社も進出し、文化や情報の最先端が集まる場所としても注目されていました。

大正4年(1915年)あたりには、「銀ぶら」の語が登場しました。銀座をぶらぶらと歩くことのほかに、当時珍しかったブラジル産のコーヒーを飲むことに由来しているという説もあるようです。モガ、モボと呼ばれたモダンガール・モダンボーイたちが登場するのはもう少し先、大正12年の関東大震災を乗り越え、復興期にカフェーやデパートが建てられ始めた頃でした。

復興と経済成長

モガやモボが街を闊歩し、レコードの曲が流れる浮かれた雰囲気も長くは続かず、昭和に入ると戦争の空気が色濃くなってきました。最先端のファッションを楽しむはずの街頭でも、「ぜいたくは敵」といった標語が掲げられ、街や交通機関の物資は軍事物資として提供されることもありました。昭和20年、終戦の年には銀座も空襲の対象となりました。

敗戦国となり、時計店やデパートは米軍専用の売店として使われるなど、銀座の状況は変化していました。そのなかで、商店街の人々が積極的に復興に取り組み、昭和21年には「銀座復興祭」の実施にこぎつけました。早くも多くの商店が再開し、サンフランシスコ講和条約の締結でさらに復興が進んでいきました。

昭和は、街並みが大きく変化した時期でもあります。昭和42年(1967年)には路面を走っていた都電銀座線が廃止され、地下鉄の整備に方向転換されました。銀座通りも大きく回収され、御影石(みかげいし)の舗装や、電柱や電線を地上に出さない工夫が施され、広く歩きやすい通りになりました。昭和45年(1970年)、銀座通りは初めて歩行者天国が実現されました。当時「ホリデイプロムナード」と名付けられ、歩行者天国、ホリデイプロムナードのイベントは現在まで続いています。

同時に、日本は高度経済成長の時期になっていました。銀座は高速道路の建設、ビルの大型化といった時代の変化を経験していきます。1973年のオイルショックにより銀座の経済成長は一時つまずきましたが、バブル期には金融機関が進出し地価が上昇するなど、高級な街としてのイメージが消え去ることはありませんでした。

銀座は文化と経済の中心地として、繁栄と逆境からの復興を実現している、人々の力が魅力の街なのです。

2.銀座発展のカギとなったお店

高級な商品を扱う老舗から、最先端のファッションを扱う店舗まで集まる銀座は、ショッピングの聖地。銀座発展の歴史のなかにも、銀座を象徴するようなお店の存在がありました。

銀座越後屋

江戸時代、銀座の発展を呉服屋が後押ししていました。新潟で創業した呉服店「越後屋」は2代目の当主のとき、銀座2丁目に店舗を構えました。現在まで場所を変えずに、災害や戦争を乗り越え銀座を支えています。新しさも取り入れつつ伝統的な着物を供し続ける姿は、銀座の歩みとも重なります。

カフェー・プランタン

明治44年(1911年)、現在の銀座8丁目にカフェー・プランタンがオープンしました。洋画家の松山省三らが、パリの雰囲気を取り入れようと尽力しました。コーヒーやブランデー、リキュールをサンドイッチやビフテキといった洋食とともに味わえるこの場所は、文化人が集まるサロンとしての役割も担いました。洋画家の黒田清輝、和田英作、文学界からは森鴎外や永井荷風、北原白秋といったそうそうたる文化人が集まり、最先端をいく憧れの街というイメージが、確かなものになったのです。

資生堂本店

明治時代、銀座で創業された資生堂薬局が前身です。日本初の洋風調剤薬局として誕生し、その後は化粧品業界をけん引してきました。現在でこそ化粧品のイメージが強くありますが、1902年にはソーダ水とアイスクリームを販売する「ソーダファウンテン」を設立し、当時まだ珍しかったスイーツで人々を惹き付けました。これが現在の資生堂パーラーに引き継がれています。2016年に発表された「日本女性の化粧の変遷100年」では、大正時代のモダンガールから2010年代までの女性のメイクを再現し、時代の変化を化粧の観点から浮かび上がらせました。

3.銀座の今とこれから

銀座は現在も再開発が行われ、建物の老朽化を防いだり、街区を見直したりする取り組みが進んでいます。開発と伝統的な雰囲気の保全を両立するために、2008年に「銀座デザインルール」が定められ、景観の保持に役立ってきました。このルールには、色の規制や広告の大きさといった、一般的に想定される景観のガイドラインのような内容が載っていません。求められるのは「銀座らしさ」。ルールで縛り付けるのではなく、変化に対応しながら銀座の良さを保とうという姿勢が表れています。

これまでにない新しい変化の1つには、ユニクロやH&Mといったファストファッションの台頭も挙げられます。消費のサイクルが短く、流行りに合った低価格の衣料産業は、呉服店やオートクチュール、ハイジュエリーが並ぶ土地柄のイメージとは異なります。それでもターゲットや価格層が全くことなるお店が共存しているのは、伝統と新しさを兼ね備える銀座ならではの光景かもしれません。


店舗情報


関連記事

  1. >
  2. >
  3. >
  4. >